5.戒名とは
 皆様の名前は、皆様が生まれたとき両親や祖父母、周囲の人たちによってつけてもらった大切な名前であります。しかもその名前には自我が混ざっていない純粋な名前であります。しかし、その名前で幼年、少年、青年時代と暮してみると、今度は自分が目指す目標なり使命なりにふさわしい名前が必要になってくることがあります。その名前が芸名であろうと、ペンネームであろうと、四股名であろうと、自分の人生を自分で励ます戒名であれば人生は大きく充実してまいります。
 座右の銘も効力はあるが、それ以上に戒名は自分の進む方向に全生命を注ぎ込む覚悟が名前の中に含まれているので、人生の上に現われるエネルギーは確実に目標に向かって自分の運命を動かしてゆきます。
 人々は戒名を死者の供養のように錯覚して盲目的に寺院から戒名をいただいている人も少なくないが、戒名を死者に贈るという高慢な発想は佛教にはありません。これに似た思い込みや錯覚はほかにも沢山あるが、これは人類が成長する過程で起こる一風景であります。人生は常に正しい目標を定め、その目標に向かって一歩一歩前進することが大切であります。中には目標のない人生を平然と暮している人もいますが、目標のない人生は夢遊病者に等しい。このような目標のない人生を送るよりは高次元の戒名を自分に与え、目標に向かって着実に進むことがはるかに素晴らしいことは言うまでもありません。
 しかし、それを死後の問題に結びつけ、死者に鞭打つ戒名となればそれは生者の驕りであります。もしも立派な僧侶がいて、生者に戒名を授け、生きている間に安心立命の道に導くような宗教であれば、それは立派な宗教だと思います。しかし、生きている間には全く知らぬ顔の僧侶が、死亡した途端に集まって来て死後の世界の安心立命を戒名という形で在家の人々に強要するのは、少し順序も時期も筋道も違っているのではないでしょうか。もしも在家者に死後の安心立命を説くのであれば、生きている間に自灯明、法灯明の灯火をしっかりと灯して、自分の肉体の中に宿っている佛性を大いに輝かせ、生きている間に安心立命の道を確立することが真の宗教者の使命ではないでしょうか。
 現在の多くの人々の心の中には、「戒名は死者に贈るもの」という誤った人類常識のようなものがありますが、戒名は「人生の羅針盤であり心の杖」であります。天上天下唯我独尊といわれるほど素晴らしい自灯明という自分の肉体が輝いている間にこそ大宇宙に輝く法灯明を知る絶好の機会が存在しているのであります。
 佛教は、肉体が八千八度の生まれ変りをすることは教えているが、生命は不生不滅、不垢不浄、不増不減であると教えています。佛教には、生と死の区別はありません。生死一如であって死後の世界の戒名などを差しはさむ余地は釈尊の教えの中には存在しません。佛教は、自分に与えられた天上天下唯我独尊の素晴らしい肉体と、大宇宙の素晴らしい大調和の法に目覚めることが最大の目標であります。佛教では自灯明を通して法灯明を自覚した人を覚者と呼び、菩薩と呼び、如来と呼び、佛と呼んで尊敬してきたが、釈尊も覚者の一人であります。
 佛教も、キリスト教も、その他多くの宗教も、如是我聞の経典に惑わされ宗教の本質を見失っているが、人類が大調和の真実の世界に気付けば万教は一つになります。地球は一つ、太陽も月も一つであります。一日も早い自灯明、法灯明の大真理に目覚める日の一日も早いことを祈っています。


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