2.寺とは何か
寺という字は、寸(手)が意符で、之が音符(新漢和辞典)であります。寸とは手と親指の合字で、相手の手をとって脈拍を測っている姿であります。したがって寺は、お互いの健康をよろこび無事をよろこび、神佛への感謝を存分に表現するところであります。同時に相手の幸福を思いやるやさしさの湧き出でるところでもあります。したがって寺に来ると何よりも大切なのは神佛への感謝であり、万物万象への感謝であり報恩であります。
寺にいる間は、優しい笑顔を施し、真心を施し、親切を施し、優しい言葉や行動を施し、相手の手をとってお互いに大慈の心を与え合うことが大切であります。寺に来て写経をしたり、雑談をしたり、仏像に触れ、仏像とたわむれているうちに「与える愛」の心が三毒を発散させるので自然に笑顔が増してまいります。笑顔が増してくると人相が良くなり、ますます人が集まって来るので運命は大きく変わります。
しかし、現在の多くの寺は、出家僧の住居となっており、出家僧の職場となっているので、釈尊が示した天上天下唯我独尊のすばらしい肉体(自灯明)も、その肉体を生かしている大宇宙の大生命(法灯明)も、寺の中では如是我聞の経典とか宗派とか教祖の違いに妨げられて光を失い、純粋な信仰が大きく妨げられています。
人間の住んでいるところは、大宇宙(神佛)のふところであり、大宇宙の生命に生かされて生きている万物万象の共生の広場であります。寺という一つの建物がなくとも、一人一人が佛さまを体の中に持って生まれて来ているので、あちらの佛さま、こちらの佛さまと探す必要は全くありません。
喉佛(のどぼとけ)は、人間の生命の根源である呼吸、食物、言葉などの使い分けをつかさどる聖域であります。日々使う言葉も、食事も、呼吸も、五臓六腑も喉佛(のどぼとけ)に守られ、それが人間の生命の営みとなり大宇宙の大調和の姿を人間の肉体の中に創り出しています。これが人間をはじめとする万物万象が神佛の子(小宇宙)として神佛に生かされて生きている極楽浄土の姿であります。「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も「南無観世音菩薩」も一つの太陽、一つの大宇宙の大生命の表現であって、表現の文字が変わっても同じ太陽であり、同じ大宇宙の大生命であります。
人間は、固有名詞のつく井の中の宗教や如是我聞の中途半端な宗教に道を求めなくとも、神佛は自分に内在しています。自分に内在している自灯明、法灯明に降り注ぐ妙光をよりどころにして自分に最もふさわしい人生を歩むことが、自分に課せられた最大の使命であり義務であります。
人間は、自分の間違った思い込みや、思い違いを一日も早く改めて、あるがままの自分をあるがままの最も美しい姿の生き方をすることが大切であります。チューリップの花が菊の花の真似をする必要もなければ、柿が蜜柑の真似をする必要もありません。チューリップはチューリップとしての使命を果し切ることがチューリップの最大の喜びであり最大の幸福であります。
十九世紀から二十世紀にかけての盗品文明に酔いしれた人類は、地球を人類の所有物の如く独占する誤った文化を積み上げました。この誤った人類文化を千三百年かけて正常に戻そうという中国友人の願いは、これから起きる因果応報のいろいろな出来事を乗り越えるエネルギーとなって平等院大慈寺という無名の寺をゆっくり、ゆっくり未来に向けて花を咲かせてゆくことでしょう。
中国の友人は、「平等院大慈寺が船出して千三百年経過した頃には、地球上には国境がなくなり、人類は地球国家という国境のない地球で万物万象が平等に平和に暮す大慈の世界を実現していることでしょう」と語っていましたが、人類は真の悟りを得る日の一日も早い実現に向かって絶え間ない努力を続けることを忘れてはならない。
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